瀬戸内海国立公園の父 小西 和

さぬき市歴史民俗資料館 Last Update 2017.11/17

平成26年8月 当資料館にて開催された「国立公園指定 80周年記念企画展」から収録したものです。

小西和写真

はじめに

 1934年(昭和9)3月16日、瀬戸内海が雲仙、霧島と共に、日本で初めての国立公園に指定され、今年で80周年を迎えます。
その魅力を最初に総合的な書物として発表し、国立公園として保護する必要があることを提唱した人が、本市出身の小西 和氏でした。

 小西 和は、瀬戸内海の魅力を日本で最初に総合的な書物として1911年(明治44)に「瀬戸内海論」として発表し、国立公園として保護する必要があることを国会で最初に提唱した人です。
その努力により、瀬戸内海が雲仙、霧島と共に国立公園第1号として指定されました。また、史跡名勝天然記念物を中心とする文化財の保存についても国会で提案し、今日の文化財保護制度につながる礎(いしずえ)も築きました。

さらに、北海道の開拓についても小西の果たした役割は大きく、栗沢町(現北海道岩見沢市)を中心とする北海道で生活する人々の心の中に、小西の遺志は受け継がれています。
1899年(明治32)に農業経営が水害等で破綻し、北海道を去ることになりましたが、その功績は現在も称えられています。
ジャーナリストとしても偉才を発揮し、数多くの記事を掲載したことで多くの読者を魅了したり、実業家、文化人としても活躍するなど多方面にわたって才能を発揮した、さぬき市の偉人の一人です。

第1章 北海道に賭ける夢

 第1章では、伊予尋常中学(現松山東高)に入学する15才から北海道開拓に尽力した26才頃の資料を中心に展示構成しています。

 小西の幼名は、「和太郎」でしたが、1896年(明治29)の23才で「和」と改名する時期でもあります。

【資料1】日記帳 1888年(明治21)
【資料2】金銀入簿記 1888年(明治21)

日記帳と金銀入簿記写真 

伊予尋常中学校から岡山尋常中学校に転校する頃の様子と支出の記録が書かれています。
小西が、北海道で農業経営を行う希望を持つようになった切っ掛けは,伊予尋常中学で山下敬太郎先生から 北海道の素晴らしさを学んだことが契機となったと伝えられており、この 頃の様子が 記録されています。

【資3】北海道地勢及び鉱産図

北海道地勢及び鉱産図

1911年(明治44)末現在に作製された北海道の地勢及び鉱産の様子を示した地図です。
国有林は緑色、官有地は水色、民有地は赤色で表示されています。
栗澤村の周辺は赤色で民有地として開拓が進んでいる様子がうかがえます。

【資4】北海道帝国大学創基50年記念写真

北海道帝国大学創基50年記念写真

1926年(大正15)に作成された北海道大学の写真帳です。
小西は、1891年(明治24)9月に入学しますが、栗澤村で小西農場を経営することに専念するため1894年(明治27)9月に家事上のため退学し、
正規の卒業生ではありませんが、後に北大総長となる佐藤昌介先生をはじめとする諸先生方の計らいで終生同窓生として往来していました。
この写真帳からも、そのことがうかがえます。

【資料5】栗澤村に届いた小西和宛ての書

栗澤村に届いた小西和宛ての書

1897年(明治30)に父 小西弥七郎が逝去されたことのお見舞いを、東京に住む渡辺融氏から小西にあてた手紙です。

【資料6】栗澤村開拓時代の手帳

栗澤村開拓時代の手帳

1896年(明治29)に記録された手帳です。 この頃、「和太郎」を改め「和」と改名広告を掲載していますが、手帳には「珂那夫」と表記していることがうかがえると同時に,雅号である「松亭」と表記していることも垣間見えます。

【資料7】北海道農業秘録

北海道農業秘録

1942年(昭和17)に刊行されており、当時の北海道農業開拓において、小西が取り組んだ功績について述べられています。

【資料8】開拓70周年記念小西部落沿革史 

小西部落沿革史

1963年(昭和38)9月、開拓70周年を記念して栗沢町小西連合会が刊行した沿革史です。
小西が取り組んだ開拓について紹介されており、小西の開拓精神が受け継がれていることが分かります。

【資料9】年中重寳

年中重寳

900年(明治33)1月に小西農場が発行した年中重寳です。
1年間の暦や全国の主要都市人口等、農業経営に必要な事柄が記されています。

【資料10】小西和の生家跡のスケッチ

小西和の生家跡のスケッチ

生家は、さぬき市名(みょう)(亀鶴公園南付近)にありました。

【資料11】北海道旅行日誌(第1回)

北海道旅行日誌

札幌農学校に入学した和太郎は、最初の夏休みを利用して北海道一周旅行を行います。
その旅行日誌は、香川新報(現四国新聞社)に68回にわたって連載されました。
このパネルは第1回の日誌です。

【資料12】栗澤村開拓時代の手帳に 描かれたスケッチ

栗澤村開拓時代の手帳に描かれたスケッチ

このスケッチは、1896年(明治29)3月7、8日に描かれたもので、釧路を訪問した際に描いたスケッチと考えられます。
この頃は、農場経営も順調で名前も「和太郎」から「和」に改名する時期です。
またこのスケッチは、「讃岐人物風景13明治から大正へ(四国新聞社編)昭和60年4月20日発行」でも紹介されている原画だと考えられます。

【資料13】小西農場写真1

小西農場写真1

北海道一周旅行をして、栗澤村(現岩見沢市)で農業を開設しようと決意した和太郎は、家族を説得して一家総出で1983年(明治26)4月に小西農場を開設します

【資料14】小西農場写真2

小西農場写真2

 和太郎自身は、平日は札幌で勉学に励み、週末は栗澤村で農場経営を行う多忙な生活を送ります。
このような生活を1年以上続けましたが、父親の戒めにより、1894年(明治27年)9月札幌農学校を退学し、農場経営に専念します。
開墾の進展は、別表「開墾進捗状況」のように順調に進んでいました。
そして、収穫量も別表「作物と収穫量」のように多くの収穫量があった ようです。

【別表】開墾進捗、作物と収穫量

開墾進捗状況,作物と収穫量

 また、農場経営の傍ら酒の醸造、郵便局事業などにも多額の投資をして精力的に殖産や公益に励みますが、酒造の失敗や大水害で負債が累積したことにより、1899年明治32年農場経営が破綻し、その2年後の1901年(明治34)ついに小西農場は人手に渡りました。和28歳の時です。

【資料15】妻 治子との写真

妻 治子との写真

治子との出会いは、和が1898年(明治31)頃上京した時に出会い、和から結婚を申込み、その真剣さに治子の母が惹かれ、翌年の結婚に結びついたと伝えられています。
結婚時の年齢は、和26歳、治子17歳でした。

【資料16】栗澤村で過ごした屋敷跡

栗澤村で過ごした屋敷跡

(写真提供 佐々木明美氏)

農場経営の失敗により、小西は1899年(明治32)に栗澤村を離れますが、開拓功労者の一人として栗澤村の人々の心には和の遺志が受け継がれました。
その後、小西の功績を偲んで屋敷跡の碑が建立されました。

【資料17】小西神社

小西神社

(写真提供 佐々木明美氏)

この神社は、小西が小西農場で働く人々のために、1894年(明治27年)郷里にある宇佐神社の分霊を祀ったことに始まります。
祭神は、天照大神、八幡大神をお祀りしています。
小西は祭神ではありませんが、祭神に近い存在で、今も地元の人々から尊敬されています。

【資料18】栗澤村長からの表彰状

栗澤村長からの表彰状

1942年(昭和17)12月13日、栗澤村開村50年記念式典で、開拓功労者として栗澤村長から表彰状が授与されています。