さぬき市歴史民俗資料館 古代ガイド
飛鳥・奈良時代編

Last update 2020.9.3

さぬき市の古代寺院

日本の仏教は西城・中国・朝鮮半島を経て伝えられました。538年あるいは552年の欽明天皇の時代に百済の聖明王によって仏像・経論が伝えられたとされています。

6世紀の中頃、蘇我氏は仏教の需要を積極的に進め596年に日本最初の本格的伽藍をもつ飛鳥寺を完成させました。

引き続いて7世紀前半にかけて舒明天皇創建とされる百済大寺聖徳太子創建と言われる四天王寺、法隆寺などが建立されました。

7世紀後半になると天武天皇によって大官大寺・薬師寺が創建されるなど仏教興隆は国家的に推進されるようになり、地方の豪族も競って寺院を建立するようになります。

さぬき市内もこの時期から寺院の創建が確認でき、その担い手は地方豪族であったと考えられます。

寺院の建立は古墳にかわって豪族の権威を示すものとなり、伽藍建築は礎石・瓦を用いた新技法による大陸風建物でした。

下り松廃寺

六葉素弁・細単弁蓮華文軒丸瓦

飛鳥時代

十六葉細素弁・七葉複弁・八葉単弁蓮華文軒丸瓦

奈良時代

下り松橋の北東、爛川の川岸段丘付近の複数の個所から古瓦が発見されています。古瓦出土地近くには下り松庵があり、庵内には室町時代の1407(応永8)年の六地蔵石幢が安置されています。また、庵の建物下には大型の礎石が見られます。
一方、現在沿岸部の津田町に在住する光西寺はかつて下り松付近にあり東蔵坊と呼ばれていました。下り松廃寺はこれらの前身寺院であった可能性がありますが詳細は不明です。
瓦は7世紀後半の飛鳥時代(白鳳期)から8世紀の奈良時代のものが確認されています。

極楽寺跡

極楽寺跡

極楽寺は、現在長尾東に所在しています。極楽寺に伝わる「宝蔵院古暦記」には孝謙天皇の頃に行基により建立されたが、824(天長元)年に鴨部東山へ移転。さらに1330年代に兵乱により、現在地に移転されたとあります。

最初の建立地は植松千間といい、北に延びる尾根の西側山裾に位置しています。明治時代に鉄錫杖、経筒、唐花双鶯八花鏡が発見されています。

唐花双鶯八花鏡は興福寺金堂鎮壇具の踏み返し鏡になります。鉄錫杖と唐花双鶯八花鏡はさぬき市の文化財に登録されています。

1969(昭和44)年には圃場整備に伴う発掘調査が実施され講堂跡、塔跡の可能性のある遺構が確認され四天王寺式伽藍配置が想定されています。

瓦は7世紀後半の飛鳥時代(白鳳期)から平安時代のものが確認されています。十二葉細単弁蓮華文軒丸瓦1は同笵のものがまんのう町の弘安寺跡、三木町上岡廃寺、徳島県美馬市郡里廃寺より出土しています。また瓦には鴟尾の鰭部分の破片も採集されています。

極楽寺跡周辺は古墳時代後期の古墳が多く、江戸時代にはその存在が知られていました。中でも極楽寺跡の北東にある中尾古墳はさぬき市最大規模の横穴式石室になります。

また南西にはさぬき市指定文化財に登録されている蓑神塚古墳があります。これらの古墳は7世紀前半頃に築造されており、極楽寺跡を創建した豪族の先祖の墓であった可能性があります。

十二葉細単弁蓮華文軒丸瓦1・2

飛鳥時代

十一葉細単弁蓮華文軒丸瓦1・2

飛鳥時代

八葉単弁蓮華文軒丸瓦1・2

奈良時代

十二葉細素弁・十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦

平安時代

重弧文軒平瓦

飛鳥時代

変形・扁行唐草文軒平瓦

奈良時代・平安時代

石井廃寺

石井廃寺

雨滝山塊から西に延びた丘陵上に立地します。石井地区自治会館の南には花崗岩製の心礎が残されています。石井自治会館は石井庵とも呼ばれ内部には室町時代の石仏が安置されていますが石井廃寺からの系譜ははっきりしません。
瓦は7世紀後半の飛鳥時代(白鳳期)から13世紀の鎌倉時代までのものが確認されています。また、飛鳥時代の製作と考えられる鴟尾の破片が採集されています。
石井廃寺の東の丘陵には古墳時代に奧古墳群が築造されました。付近は沿岸部と内陸部を繋ぐ峠道であり、当地一体は交通の要衝になります。

八葉複弁蓮華文軒丸瓦

飛鳥時代

七葉複弁・八葉複弁蓮華文軒丸瓦

飛鳥時代・鎌倉時代


四重弧文軒平瓦

飛鳥時代

扁行唐草文軒平瓦

飛鳥時代

扁行忍冬・均整唐草文軒平瓦

飛鳥時代・鎌倉時代


鴟尾

飛鳥時代

花崗岩製心礎

律令国家の成立と地方

7世紀後半になると日本は唐の律令にならいながら中央集権的国家制度を整えていきました。

そして701(大宝元)年に大宝律令が完成し中央と地方の政治の仕組みがほぼ整いました。

地方組織は全国が畿内・七道に行政区分され、国・郡・里(のちに郷となる)がおかれ、国司・郡司・里長が任じられました。国司が中央から貴族が派遣されたのに対して郡司は地方豪族が任ぜられました。郡司は郡の役所である郡家(群衙)を拠点として郡内を支配しました。

さぬき市内では郡家の位置は確定していませんが、大川町千町遺跡(富田駐在所地点)で確認された7世紀後半~8世紀前半の総柱建物跡は正倉の可能性があり周囲に官衙遺構が広がっている可能性があります。

10世紀初めの平安時代中頃になると律令体制のいきづまりが明瞭となり、これまでの税の徴収・運搬な文書の作成などの実務を行ってきた郡司に代わって有力農民(田堵)に田地の耕作を請け負わせるようになります。

こうして郡家は衰退していきますが、寒川横内遺跡では規則的に配列された10世紀の大型総柱建物2棟と掘立柱建物跡を3棟検出しました。

遺跡の特徴からは官衙遺構が想定されますが年代を考慮すれば社会の変化に伴って出現した新たな施設となる可能性もあります。

千町遺跡(富田駐在所地点)の総柱建物跡
香川県教育委員会1995「千町遺跡発掘調査報告書」を転載・加筆

横内遺跡の総柱建物跡(3間×3間)

寒川郡と郷

承平年間(931~938年)に成立した我が国最初の百科事典である和名類聚抄によると現在のさぬき市の範囲のおおよそは当時寒川郡に属していました。そして寒川郡は難波郷・石田郷・神埼郷・長尾郷・造田郷・鴨部郷・多和郷の7郷から成り立っていました。寒川郡名史料上の初見はさらに200年以上前の『続日本紀』の713(和銅6)年5月12日条になります。
また、難波郷は平安京右京三条一坊六町の発掘調査で9世紀前半の井戸から「讃岐国寒川郡難波郷秦武成」と墨書された木簡が出土されています。

寒川郡の7郷

難波郷は平安時代後期に富田荘になります。津田・志度の地名はこの頃にはまだ見られません。

平安京右京三条一坊六町で出土した木簡
財団法人京都埋蔵文化財研究所2013
『平安京右京三条一坊六・七町跡』
『ー西三条第(百花亭)跡ー』の図版を転載。

寒川郡の地方豪族・人々

東讃の代表的な国造系豪族は凡直(おおしのあたい)氏です。791(延暦10)年に寒川郡の凡直千継が改称を申請した時の言上から次の事が分かります。

凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。

ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。

そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたいということが記載されており、結局、千継の21戸が讃岐公になることが認められました。

讃岐公氏は平安時代に明法博士を輩出しました。讃岐永直は明法博士となり、836(承和3)年に永成、当世らとともに朝臣姓を賜与されています。

讃岐永直は大宝律令の注釈書である『令義解』の編纂にも携わりました。

讃岐氏は中世にも見られます。石田東の大蓑彦神社に大般若経600巻を奉納した人物として讃岐基光の名が見えます。

讃岐基光は1245(寛元3)年から1254(建長6)年までの約10年間に書写を行い、その後の1336(建武3)年に次本となっていた第124巻を讃岐光俊が奉納しています。第98巻の奧書には「寒河郡司前右衛門尉讃岐基光」の記載が見られます。

「讃岐国戸籍」断簡には物部借馬連が見えます。『続日本紀』の713(和銅6)年5月12日条には寒川郡人として物部乱の名が見られることから物部借馬連も寒川郡人と考えられています。

713年に物部乱は飼丁から良民に復したとあり、物部氏は馬の飼養や馬を貸していた氏族であったと考えられています。

780(宝亀11)年12月29日付けの『大和国西大寺資材流記帳』によると寒川郡内には坂本毛人の献じた塩山があったことが分かります。

ちなみに『続日本紀』によると768(神護景雲2)年に韓鉄師毗登毛人が坂本姓を賜ったとあり、同一人物の可能性があります。

この時に同じく坂本姓を賜った人物に韓鉄師部首牛養がいます。

一方、同じ牛養の名前では791(延暦10)年に岡田臣姓を賜った佐婆部首牛養がいます。

この他、文献に見られる人物として『日本三代実録』で887(元慶元)年に矢田部造利の名が見られます。

発掘調査の成果からは、京都府の平安京右京三条一坊六町の調査で9世紀前半の井戸から「讃岐国寒川郡難波郷秦武成」と墨書された木簡が出土しています。

ちなみに秦氏は山田郡の郡司の1人として8世紀中頃に秦公大成の名が見られ、長岡京出土木簡に秦□成□の名が見られます。

    

民衆の負担と移動・移住

律令国家では民衆に租・調・庸・雑徭の負担が課せられました。

この内、調・庸は絹・布・糸や各地の特注品を中央政府におさめるもので、成人男性はそれらを都まで運ぶ運脚の義務がありました。

一方、兵役は成人男性3~4人に1人の割で兵役が調達されました。その一部は宮城の警備にあたる衛士や九州沿岸を守る防人になり、防人は東国の兵士があてられました。

東国は中央政府の支配領域の拡大に伴い軍事的制圧が進められました。

彼らは蝦夷と呼ばれ、服属した後は俘囚と呼ばれました。そして中央政府は蝦夷・俘囚の勢力を削ぐために強制移配し労務使役させました。

森広遺跡では東北地方の土器と共通点のある8世紀前半の黒色土器が出土しており、蝦夷・俘囚の移配等に伴う人の移動があった可能性が指摘されています。

同じく森広遺跡に近い本村遺跡からは丘陵上で8世紀後半の竪穴住居跡が1棟確認されました。

8世紀後半は香川県では一般的に竪穴住居が見られなくなる時期です。

竪穴住居跡の北側には土師器甕を入り子状に組みあわせて竈の煙り道にしていました。

こうした事例は今のところ香川県では確認されておらず、神奈川県西部で複数認められます。

さらには竪穴住居跡内からは黒色土器の坏が複数出土しました。

このように、本村遺跡の竪穴住居跡も関東以西の人々の移住を物語っており、尾根上に1棟のみ見られることを考慮すれば何かしらの生業活動のために丘陵上で生活を余儀なくされた移住者の住居跡であったかもしれません。

本村遺跡で検出された竪穴住居跡

     

本村遺跡竪穴住居跡の土器を使用した竈の煙道

     

←本村遺跡の土器煙道に使用されていた土師器甕


土器煙道には土師器甕6点と須恵器鉢1点の7個体の土器が使用されていました。
土師器甕はそれぞれ形態が異なるという特徴が見られます。

     

←本村遺跡の竪穴住居内から出土した杯・皿


本村遺跡竪穴住居跡からは須恵器・土師器・黒色土器の杯・皿が出土しました。
写真左下隅の土器が黒色土器になります。

条里制と南海道

将基山南東部の条理・南海道の復元(左)

空中写真(右)日本地図センター空中写真

     

田地は6町四方に区画され、一辺を、他辺をと呼び田地は南条南里南坪で表示されました。1町は一辺約109mの方形区画になります。各地に見られる碁盤目状になった土地区画は条里制の痕跡であることが多く、香川県内でも発掘調査によって複数個所で7世紀段階での存在が明らかになっています。さぬき市内でも条里制の区画は明瞭に残されています。
次に律令国家は地方組織として全国を畿内・七道に行政区分しましたが、香川県では南海道に属します。そして中央と地方を結ぶ交通制度として官道(駅路)が整備され、約16㎞ごとに駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれました。さぬき市内では官道は東西に直線的に延びており、近世以降の讃岐往還、長尾街道に多くは継続していったと考えられています。駅家は香川県では東から引田、松本、三谿、河内、甕井、柞田の6駅があり、松本駅はさぬき市あるいは東かがわ市が想定されていますが未だ場所は断定できていません。

古代の官道地図

古代の官道は幅9~12mの直線道であったと考えられています。
三木町白山からさぬき市大川町富田西までは今でも直線道路が見られ、古代南海道が推定されます。
ところが富田西から東にかけては直線道が残されていません。近世の幹線道である讃岐往還は南に曲がっています。
南海道を一直線として復元すると東は八剣池付近になり、途中には千町遺跡があります。

三木町白山からさぬき市富田西へと続く直線道をそのまま東に延長すると千町遺跡の近くを通ることになります。千町遺跡では東西方向の溝が検出されており、溝の中からは7世紀後半の須恵器・土師器が出土しています。南海道を直線道として考えるならば南海道に関連する遺構であるのかもしれません。

←千町遺跡の溝から出土した土器

左から須恵器甕、土師器甕、土師器杯

森広遺跡で発見された条理の条境
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←森広遺跡では南北に延びる溝を3条検出しました。この地点は条理の条境で(赤線)、条理付近の水路と道である可能性があります。溝の中からは9世紀前半の土器が出土しています。

文化と信仰

森広遺跡で発見された竪穴住居跡と掘立柱住居跡

奈良時代になると生活では竪穴住居にかわって平地式の掘立柱住居が普及してきました。森広遺跡では7世紀前半の竪穴住居を掘り込んで7世紀後半から8世紀の掘立柱住居を建てている状況が見て取れます。

森広遺跡で発見された竪穴住居と掘立柱住居

複数ある方形の堀込みが竪穴住居跡です。北側には竈が付いています。左隅は何度も建替えた様子がわかります。写真中央上方には2間×3間の掘立柱住居跡が竪穴住居跡を掘り込んで建てられており、竪穴住居跡が使用されなくなった後に建てられたものと判断できます。

大川町山の神の蔵骨器

奈良時代

火葬墓

我が国で最初に火葬されたのは道昭という僧侶で700年の事でした。その後、歴代天皇でははじめて持統天皇が703(大宝3)年に火葬され、文武(707年)、元明(721年)、元正(748年)と天皇の火葬が続きました。火葬は奈良時代になると律令国家の官僚であった貴族層にも採用され、奈良時代後期になると地方にも火葬が浸透していきます。地方で火葬を採用したのは郡司などを担った地方豪族になります。
火葬墓で蔵骨器に使用されたのは主として薬壺形をした須恵器の短頸壺でした。さぬき市内でも蔵骨器と思われる土器が出土しています。この時期の火葬墓は山の斜面に単独で発見される傾向にあります。

さぬき市郷土館(旧津田郷土館)に保管されていた蔵骨器薬壺形の奈良時代の須恵器短頸壺であることから蔵骨器と推測されますが、出土地・出土状況は不明です。

津田町岩崎山の古墓(奈良時代)

岩崎山の斜面に1墓が単独で発見されました。穴に土師器甕を倒置させ、その上に鉢を被せていました。蔵骨器の可能性がありますが火葬骨は見られませんでした。

銅碗

猿投産灰釉陶器の蔵骨器

大川町黍谷火葬墓出土品

     

大川町沗谷の火葬墓

南川沗谷で昭和49年に発見されました。蔵骨器は猿投産灰釉陶器で中には火葬骨が充満していました。蓋には銅碗を使用しています。銅碗の底部内面には和紙が貼られ墨書が見られますが、墨書の内容は判明していません。さらに蔵骨器の外側は外容器として黒色土器が使用されていました。灰釉陶器の形態から9世紀後半の平安時代の火葬墓と考えられます。

経塚

経塚とは経典を経筒におさめて埋納したものです。11~12世紀に盛んに造営されますが、背景に末法思想があります。未法の到来に際して経典が消滅する危機意識があり、それを埋納して後世に伝えることを意図していたようです。
さぬき市では大川町谷経塚で銅製経筒・石製外容器・合子、津田町岩清水神社裏で土師器製外容器が出土しています。
また、寒川町蓑神では大蓑彦神社北側丘陵の東斜面で中国産白磁四耳壺が出土しており、さぬき市指定文化財に登録されています。白磁四耳壺は蔵骨器の可能性もあり経塚と断定できません。
他にさぬき市郷土館(旧津田郷土館)では中国産陶製経筒を模倣したような須恵器壺が保管されています。出土地等は不明ですが経塚遺物であった可能性があります。これらの遺物の年代は12世紀頃と考えられます。

大川町谷経塚経筒・青白磁合子

『史蹟名勝天然紀念物調査報告書第11』から転載

寒川町蓑神白磁四耳壺

                

さぬき市郷土館保管須恵器壺