平成28年8月 当資料館にて開催された「古文書からたどる近代教育のあけぼの 明義堂・鴨居家 展」から収録したものです。
明義堂は、学生発布に先立つ明治4年(1871)、鴨居忠次郎が郷土の教育のために私財を投じて創立した公教育機関です。その明義堂で学んだ生徒の一人に、県内初の東大合格・博士号を取得した鴨居武博士もいます。さらに、明義堂の精神を受け継いだ鴨居ミチ氏は、書道を通じて世界的に活躍しました。本展では、鴨居家文書と鴨居家寄贈資料の一端から明義堂の教育理念と鴨居家の果たした役割をたどります。
また、本展を開催するにあたり、資料整理は藤井洋一氏、渡邉寛氏に大変お世話になったことをご紹介させていただくと共に感謝申し上げます。ーさぬき市教育委員会ー
鴨居忠次郎
郷校設立の嘆願書
主な展示物
- 明義堂創立に伴う古文書資料
- 本校人名録
- 藤沢東該・小橋多助 等の書簡等
- 延喜式全50巻
- 讃岐国名勝図会など
天保4年(1833)5月29日、冨田西村平三郎の子として出生。
幼名は光、長じて為光、字は大明、滴翠と号し、通称は忠次郎。
18歳の時、兄が死去したので家を継ぐ。家業の傍ら詩文を修め、また造家、器具制作の意匠に秀でた。人となり慈恵の心が厚く、安政4年から30余年間貧窮者に毎年米一升宛ひそかに賑恤していた。氏は高松藩学校講道館の漢学準少助教をしていたが、郷校明義堂の設立興隆に尽くした。
子女5人あり、長子を薫太郎、次男を武、三男を啓三郎あとは女子であったがいずれも逸材であった。
明治36年4月70歳で逝去した。
鴨居 武
鴨居武博士 直筆書「明義」大扁額
主な展示物
- 明善塾中の小詩稿
- 第1高時代の微分・積分学のノート
- 化学・電気工学等のノート
- 讃岐学生会雑誌
- 最新写真術
- 内閣総理大臣大隈重信からの辞令書
- 東大総長南原繁氏の書簡
- 広大教授 猪熊信男の書簡など
元治元年(1864)8月8日、富田西大道の鴨居忠次郎の次男として出生。幼名を茂次郎といった。 幼少の頃は父の創立した明義堂で学び、卒業後も明義堂の助教として生徒の補導に当たり、明治7年頃には石田東村の地蔵小学校の教員となった。
明治10年頃武と改名。向学心強く、明治10年頃から高松の山川塾で約1年間漢学を学び、同14年頃から大阪の藤沢南岳塾で約2年間漢学詩文の教えを受け、さらに洋学を志し、東京の予備校で3年間英語・算数をならったのち、明治19年9月に第一高等中学校へ入学した。ついで、工科大学応用化学科、更に同校大学院を経て同30年には工科大学(東京帝国大学)の助教授となった。
次いで応用電気化学、応用光線化学研究のため米国及びドイツに留学、同41年帰国と同時に東京帝国大学の工科大学教授に任命された。
香川県人初の工学博士の学位を授与された。
大正14年に満60才で退官、従三位勲三等に叙せられた。博士は、日本で最初の電気化学研究者といわれ、特に応用電気化学・写真化学の権威者であり、板硝子、人絹等の製造工業の指導者(日本化学会会長・工業化学雑誌の編集者)となり、工業発展に貢献した。
昭和35年96才で逝去。
氏の次女ミチは明治36年9月出生で、調和体の有名な書家である。
鴨居ミチ